最近、「嫌われる勇気―――自己啓発の源流"アドラー"の教え」が良い本だったという話を聞いて、昨今、EQとか共感力とか言うけど、反感力・反感耐性ってもなかなか良い気がするな。などと思った次第です。
...と言うのも、最近SNSで反感を買ったとしても、反感を持っている方の問題が可視化されてきているからですかね。具体的に言うと
"ヤバい人バイアス"、
"お気持ちヤクザ" や "繊細チンピラ" などが該当する気がします。そう言う事を考えると、「無視やブロック」と云うのも、意味のあるコミュニケーションの1手段と言えるのかも知れないな。...等と考えたりしました。
全然関係ないケド、某弊嫁も、わりと、この "お気持ちヤクザ" や "繊細チンピラ" な気がしていますが、しかし、コレが案外「コミュニケーション」(
こんな感じの)なんじゃないかな?なんて、確かに、最近、思ったりしています。
この理由としては、生活の基盤、衣食住が満たされて、次の人類の興味や焦点は、個人の主観(快適、不快)にまで進出するのかな?なんて思ったからです。そして、主観は組織や社会へ影響を与え得ると言うことで「多様性が経済と関係している。」と研究されている昨今(、マイノリティ的な)、個人の主観への配慮が、道徳として教育されるようになる日も近いのかも知れないですね(...と書きましたが、実際、ググると、2020年度から小学校で使われる保健体育の教科書に性的マイノリティの記述が盛り込まれるらしいですね)。
余談:
しかし、この本は読んでないんですが、なぜかチョット知っているような気がして、「
site:osscons.jp 対人関係の悩み」でググってみたら、
ココでチョット触れてましたね。
しかし、最近は、なんとなく、
- 共感・好感を持たれている状況、
- 反感を持たれている状況、
- 認知されていない状況。
それぞれ、ステータスとして意味のあるモノだと思い始めました。故に、KPIを共感・好感だけに絞ると、プロジェクト立上や段階的詳細化ができなくなってしまいますね(
Buzzに乗った予算認可やカタストロフィ芸)。まぁ、その辺も考えたら良いんじゃないですか(笑)。